夏休み

東京で生まれ育ったキャプテン小島の夏休みの思い出です。時代は昭和30年代です。

住まいは港区白金台でしたがセレブの街と言われる遥か昔です。歴史で学ぶ「三田用水」がまだ暗渠になっていないところが近所にあり、ダムを作ってプラモデルの潜水艦で遊んでいました。

死語になりつつある「海水浴」は鎌倉、江の島が定番でしたが、水質汚染が進むころでした。ちょうどそのころ祖父が定年退職して千葉房総半島の先に別荘を作りました。冨浦という豊かな名前の小さな漁村でした。そこへ行くには3つのルートがありました。国鉄(今のJR)そしてマイカーでの2ルートです。国鉄は千葉駅あたりまでは電化されていましたがその先はなんと蒸気機関車(SL)でした。冨浦の家に滞在していると定期的にSLの汽笛が鳴っていたのを覚えています。まだマイカーが夢の時代に父は会社から700ccのパブリカという車を営業車として貸与されていました。それで舗装されていない内房のルートを6時間位かけてそれこそトコトコと移動しました。イメージ的には気仙沼のあたりの海岸線を走っている感じです。夏場、荷物と人を満載した小さな空冷エンジンが悲鳴を上げ、オーバーヒートでエンジンが焼き付いてしまった事がありました。トンネルもたくさんあって、入り口に「いろはにほ」の順番で交通標語がペンキで書かれていました。あれは復活させれば面白いと思います。もう一つは東京湾フェリーを使うルートでした。快適ゆえに集中してしまい待ち時間が2-3時間というのもザラでした。目的地の東京湾対岸から出発するので、陸沿いでしたら北へ、フェリーなら南へと究極の選択を迫られました。今はネットで簡単に時間予約がとれてしまいます。運転の未熟な父が船内駐車位置からそれてしまったら、屈強な船乗りが4人「よいしょ」と車を持ちあげて移動してしまったのも驚きの記憶です。小学校の臨海学校が隣駅の岩井で行われたので、ちょっと土地勘のあった私は偉そうにしていたのも覚えています。
もうひとつの夏の避暑、林間学校は箱根にありました。箱根には国鉄の「湘南電車」か小田急電鉄のロマンスカーで移動しました。まだ新幹線はおろか東名高速も開通していません。中学生になると信州小諸に林間施設が新設されました。初めての2段ベッドで大はしゃぎしました。当時から「軽井沢」は別格の避暑別荘地でしたが、やはり新幹線も高速道路もないのでバスで碓氷峠を超えました。横川の「峠の釜めし」お土産の「釜」は今でも残っています。

もう一つ、それは東京の西の外れ「奥多摩氷川渓谷」でした。中央線から青梅線に乗り換えてその終点。新宿駅を仙台駅に見立てれば乗り換えの立川が愛子駅、終点の奥多摩は「奥新川」というロケーションです。東京を流れる多摩川の源流であり、広瀬川の源流とも重なります。2回ほどボーイスカウトのキャンプで氷川渓谷に滞在しました。原体験として心に刻まれていて、仙台に転勤になった時にそれが重なった新川に家を建てました。鎌倉・冨浦・箱根も大きく変わってしまいましたが、奥多摩だけは今でも昭和の風情を残しています。

さて、準備が少し遅れていますが夏から秋にかけて「新川ディキャンプ」をMKRの仲間たちにお届けしようと思います。夏休みの楽しい思い出を親子で残しましょう。