育てられ奮闘記 ~Always MKRの夕日~
子育てをしている時、自分はどんな感じで育てられたのか?なんて振り返る事はありませんか。あの時母はこう言っていたとか、あそこに連れて行ってもらったとか。
60年前の出来事ですから記憶が曖昧な部分もありますが、母が残してくれた写真アルバムとそれに書き加えられたコメントで当時を思い出す事が出来ます。
はっきり言って教育ママでした。1500人も在籍していたマンモス小学校のPTA役員も担当していました。水泳の指導員で「健康優良児」と言われたのが勲章と言う母。キャッチボールやバドミントンであまりに下手くそな息子をいつも憂いていました。裁縫料理など「自分でしなさい」と小学校下級生時代から叩き込まれ、おかげで家庭科は女子を差し置いて学級トップでした。思春期にミシンでズボンの裾を詰めたりするのも自分で出来ました。
アルバムの写真は父が撮影したものです。昭和30年代、カメラ本体も超のつく貴重品だった筈ですが、自宅を改造して自前の「暗室」わかります?フィルム写真を現像する部屋の事です、を持っていました。趣味にこだわる父親でした。
写真アルバムには親子お揃いのシャツを羽織った海辺の写真があります。母が裁縫したものです。小学生時代は殆ど母が作った洋服を着ていましたが、それは結構コンプレックスでした。みんなと違う!!
父の会社の社員旅行でスキーに行った写真もあります。山形蔵王に幼稚園時代から行っていたみたいです。96番のゼッケンを付けていて、転んで逆さになっても96番と母のコメントが残っています。
一人息子だから甘えて・・・と言われるのを母は一番嫌い、試練を与えられたようにも記憶があります。写真はありませんが、ボーイスカウトの泊まり込み合宿などに独りで送り出されました。それらは今新川で活動している原体験です。
小学校は一組50人学年6組のマンモス区立進学校でした。愛子小学校よりも小さいコンクリートの校庭で、夏場はその一部がプールとなる様掘りこまれていました。プールに木製の「蓋」をしてようやく運動会のトラックが出来るような狭さです。徒競走で何人もが蓋のふちで転びました。休み時間を受け入れる容量は無く、6年生は屋上5年生は体育館とテリトリが決められていました。確か5年生は窓の無い地下室が教室でした。そんな小学校ですが、有名私立中学に進む者が多く、進学校として多くの(2割程)の地域外越境児童を受け入れてました。その子たちは「勉強組」としてちょっと違ったステイタスをもっていました。その「勉強組」の中に日本を代表するギタリストのチャーこと竹中尚人が同級生でいました。ビートルズが来日し、長髪・エレキ=不良・問題児の代名詞の時代です。ご両親が開業医で「家柄が良い勉強組」と評判のチャーのおかげでエレキギターに寛大な空気がありました。それを横目で見ていた私も中学校でギターを始めました。
担任は「ゴリパン」先生でした。確かにゴリラ風の雰囲気はありましたが、ゴリゴリと硬い出席簿で頭をたたき、パンと平手打ちを連発する恐ろしい先生でした。さすがにパンは顔ではなく半ズボンのふとももでしたが、くっきりとモミジ跡の残るパンでした。体罰は普通の時代で、毎日1回はゴリパンを受ける勉強組では無いやんちゃ組でした。
母親の写真アルバムは小学校卒業で終わっています。中学に入るとクラブ活動や何やらで親子で過ごす時間が無くなった事に加え、被写体としてもお互いつまらなくなったのでしょう。デジカメなど無い時代ですから中学高校時代の写真記録は「卒業アルバム」しかありません。
自身の「育てられ方」をちょっとだけ振り返ってみました。それと「育て方」を重ねてみると、やはり中学以降親子の時間は無くなっています。一人息子は東京に大学進学したので18歳で別居です。間もなく社会人ですが、考えればあっという間の子育てでした。もう既に息子に意見される立場になりましたが、新川の自然を背景に濃密な時間を共有出来たのは親子の絆だったと思います。
大変な子育てですが、今集中しなければ直ぐに時は流れてしまいます。我々子育てOBは皆さんを応援し親子の絆造りの機会を提供させて頂きます。